添付の画像をご覧下さい。7月26日は相模原の事件の日。あれからちょうど4年です。そんなタイミングで、命を軽視する出来事が続いています。大西つねき氏の「命の選別」発言と一連の経緯、RADWIMPS野田氏の優生思想丸出し発言も加わり、命の選別の土壌が出来上がりつつあるようで空寒い思いです。
そして医師による嘱託殺人です。あの事件で植松死刑囚が残したものは、確実に育ってしまっていないか…
‪「安楽死」‬「尊厳死」なんて本来気軽に話せるテーマでは無いでしょう。そもそもこの社会は人間の生き死ににどれだけ真摯に向き合ってきたのか。(安楽死と尊厳死の違いがどう認識されているかも気になる)
『この機に議論を』などと宣う政治家は、そもそもの資質を問うべきと考えます。この何十年と政治がやってきたのは社会保障の切り捨て、すなわち命の切り捨てです。命の選別なるものは、既に実施されてきたのではないでしょうか。
安楽死の問題は、臓器提供という別の問題とリンクしています。安楽死を当たり前としてしまうと、次には必ず「臓器提供すれば助かる命があるのに何故延命するのか」のようなグロテスクな議論が巻き起こるでしょう。今でも「生きる望みがない人を延命させるより、臓器提供で生きられる人に」と考える人はいます。経済効率で命を選別するということは、命を差し出せということ。これがどんなに恐ろしいことか。
尊厳死の問題に僕が最初に触れたのは大学生の頃です。哲学者の梅原猛氏の論説。25年以上も前でですが、ここから本質的な議論が進んでいるようには見えません。
死は、個人に属するものでしょうか。こういう所でも誤解をされている方が少なくない。生きることも死ぬことも、社会と断絶することは出来ません。痛みや苦しみの果てに死を望む方がいるのは勿論理解出来ます。しかしそれだけでは済まないのです。例えば、それでも家族が死を望まないとしたら。誰が責任をもって生き死にを『判断』出来るのでしょうか。合理性だけで解決していい問題ではないはずです。
ここに臓器提供の話が加わってくると、臓器移植をしたい側の思惑が、その判断の圧力となりかねません。そこに「生きられる命の選別」という世論が加わると、ただでさえ難しい判断を迫られている生きていて欲しい側の願いが合理性効率性のもとに押しつぶされてしまいかねません。
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