他所で書いた話ですが、このブログでは初めてなので改めて書きます。何しろ今日は8月15日、敗戦の日です。

両親とも戦前生まれで、特に父は小学生だったこともあり自身の体験を結構覚えていて、よく聞かせてくれました。その父の話で印象的だったエピソードをいくつか。

①空襲(空爆)の話:実家の豊島園近くでは何度も空襲があった。ベニヤ板一枚向うで子爆弾が爆発し一命をとりとめたということもあった。豊島園の建物は飛行場の格納庫に似ていたため、空襲にあったとのこと。少し離れたところからそれを見ていた父は、燃え盛る炎をきれいだと感じたそうな。爆弾の殻や空の薬莢を集めては怒られたとも聞きました。また、爆撃機が落としていったのは爆弾だけでなく、日本語で書かれた米軍のプロパガンタビラも舞い降りてきたそうで、そういうものは憲兵に押収されたそうです。

②機銃掃射の話:今で言う光が丘のあたりに、大きな農家があって、食べ物に困った近隣住民がこぞって着物などを持っていき、食べ物に交換してもらっていた。けれど着物もいっぱいになりそのうち食べ物を分けてくれなくなった。それでどうしたかというと、子どもに行かせて同情を引き食べ物を貰おうという話になったそうで、父も行くことになった。友達と歩いていると、米軍の戦闘機(機種まではわからない)に見つかり、機銃掃射にあったそうです。父の隣を歩いていた友達が犠牲になったと聞きました。この時父から「パイロットの顔が見えるほど近づいた」という話を聞いたのですが、これだけは眉唾と思っていました。子ども時代の記憶だし誇張されたかと。しかし後ほど、「パイロットの顔が見えた」という父と同様の証言が他にも有ることを知りました。パイロットにしてみれば、子どもと分かって撃ったということではないでしょうか。戦争の狂気を垣間見ることができる話だと思います。

③朝鮮人の家族を匿っていた話:実家のばあちゃん、つまり父にとっては母親ですが、戦争中に朝鮮人の親子を匿っていたそうです。おばあさんとその娘、そしてさらにその子ども。赤ん坊です。近隣の人たちも知っており、危ないからやめろと言われていたそうですが、ばあちゃんは隠しつづけた。しかしそのうち憲兵に見つかり、連行されていったそうです。「アイゴー、アイゴー」というおばあさんの声を聞いて、言葉は知らなくても助けてと言っていると分かったと父は言っています。また、子どもながらに、赤ん坊とその母親、おばあさんの何が危険なのかとも感じたそうです。この家族がその後どうなったかわからずじまいだそうです。

④憲兵の話:戦時中から憲兵は嫌われていた。そりゃそうでしょうね。権力をかさにきて威張ったり暴力を奮ったりしていれば好かれるはずがありません。戦後すぐに、その憲兵の遺体が石神井川に浮かんだそうです。勿論どんな理由があれ殺人も復讐もだめですが、そういう話ではなく、いかに戦時体制というものが庶民に無理を強いてきたのか、そこは汲み取れるかと思います。力ずくでは抑えきれるものではないということと、そういう無理を、大日本帝国憲法や教育勅語や隣組や、あらゆるシステムで作り上げていたということでしょう。思ったようにものも言えない社会など続けられないということ。逆に言えば、私達が黙らないことが戦争を遠ざける力になるということだと思います。

⑤名前も知らない叔父の話:父の兄、つまり私にとっては叔父ですが、戦争に駆り出され帰ってきませんでした。この件、父も親戚も詳しいことを教えてくれませんでした。私の記憶には、たった1枚残された叔父の写真のおぼろげな姿しかありません。もし戦争が無かったら、少しだけ親戚の集まりはにぎやかになったでしょう。私に何を教えてくれただろうか、どこへ連れて行ってくれただろうか、そんなことも考えます。私は戦争を直接体験していなくても、私の人生には大きな影響を与えたということです。

次は母から聞いた話を中心に、続きを書きます。