ロシアのウクライナ侵攻という局面で、国内でにわかに「憲法九条を変えろ」との議論が一部に起きました。これ深刻な事態です。何が深刻かと言えば、憲法の基礎もわからない勢力が火事場泥棒を行おうとしているからです。
「九条信者はロシアにいって話し合ってこいよ」
こういう物言いに代表される揶揄と冷笑の根にあるのは、憲法そのものに対する理解の浅さです。
憲法は、国民が権力者を縛る道具です。かつて日本は枢軸国として世界に戦火を拡大させました。アジアで2000万人、国内300万人と言われる甚大な被害をもたらすことになりました。その反省のもとに作られたのが日本国憲法です。この中で九条は平和憲法といわれ、武力は持たない、二度と戦争はしないと誓った部分です。つまり、日本が外国に対して戦争を起こさないようにするのが憲法九条の役割です。
「九条信者」のような物言いをする御仁は、そもそもここがわかっていません。
憲法とは、そこにあればいいのではなく、その条文の理念を活かして政治を行う道具です。九条だってもちろん同じ。反戦平和の立場で外交をするというのがこの国の国是です。
九条があれば自動的に平和になる、などと護憲派は主張していません。これは、右派というよりネット右翼が勝手に言っているだけでいいがかりそのものですが、なんとなくこのようなデマが通用してしまうようになってきているのは怖いことです。
憲法13条の幸福追求権、25条の生存権も、そこに書いてあるけれどこれまでの政治がまったくこの理念を活かそうとしてこなかった結果、格差貧困が拡大し、医療介護など社会保障が削減され、まともなコロナ対策もないという今の状況を作り出した訳です。同じですね。憲法の条文ががそこにあれば自動的にそうなる、そんな訳はないということ。
これは憲法の基礎の基礎。法学の基礎でもあります。
残念なことに、国会議員の中にも上記のネトウヨ的言説を使う人物が少なからずいます。これは非常に恥ずかしいとともに、懸念すべき事態です。なぜなら、国会議員は憲法で縛られる側であって、その枠内で政治を行うべきものだからです。99条には憲法擁護順守義務について記載があります。憲法を守らなければいけない国会議員や大臣が改憲を叫ぶというのは、それだけでもう憲法違反です。
で、ウクライナ侵攻に話を戻して整理すると、九条無用論は意味がなく、あえて九条と絡めて考えるなら、ウクライナやロシアに九条のような仕組みがなかった、という話にしかならないということになります。やっぱり憲法九条は守らなければいけませんね。
で、日本に引き付けて考えるなら別の懸念があります。ロシアがウクライナに侵攻するのに使った方便が「集団的自衛権」だったということ。こちらの方こそ私たちが考えなければいけないことです。そうです、日本でも安倍政権時代に集団的自衛権を閣議決定してしまいましたね。これ、個別的自衛権とはまったくの別物。九条があろうとも、日本にも個別的自衛権があるというのは疑いのないことです。どこかに攻め込まれたらそりゃあ反撃はしますよ、というのが個別的自衛権です。日本が専守防衛という立場をとっているのは、九条と個別的自衛権によるものです。自らは戦争は起こさないけど仕掛けられたら反撃はする。これ、日本共産党だって否定していません。重ねて強調しますが、九条と個別的自衛権は矛盾しないというのが戦後政治での判断です。
しかし集団的自衛権は違う。同盟国が起こした戦争に巻き込まれる。同盟国とはつまりアメリカです。そのアメリカは先制攻撃戦略をもっています。現実に、第二次大戦後もベトナム・イラク・アフガニスタンなど現実に戦争を起こしています。ロシアがウクライナに侵攻する大義名分も集団的自衛権です。戦争する言い訳のように使われた訳です。目の前で戦争が起きて私たちが考えなければいけないのは九条でなくこっちでしょう。ちなみに安倍政権が閣議決定するまでは自民党政権のもとでも集団的自衛権は否定されてきました。
「九条を変えないと日本がウクライナのようになるぞ」と煽った国会議員までいました。
違う。全然違う。
「集団的自衛権を破棄しないと、九条を守らないと、日本がロシアのように戦争をしかける側になりかねない」こっちです。
憲法の基礎も知らず、冷笑的な揶揄を繰り返す。「こんな人たち」に憲法を変えさせる訳にはいきません。日本を戦争する国にする訳にはいきません。