僕には叔父がいました。父の兄です。写真でしかこの人を知りません。分かっているのは『帰って来なかった』というだけ。未だに詳しく話は聞かせてくれません。終戦間際なので激戦地に赴いたのは間違いありません。
その叔父の死を感謝などしたくありません。「お国のために死んでくれてありがとう」などと考えることはしたくありません。会いたかった、悲しいと思うだけです。『散華(さんげ)』などという言葉をつかって叔父の死を美化することは耐え難いことです。死ななくて済めばどれほど良かったか。

誰にも積み重ねてきた人生があり、家族や人のつながりがあります。死を軽く扱うことはどうしても容認できません。
感謝をするなら、あの敗戦を生き残った父母、祖父母、家族にするべきではないでしょうか。亡くなった家族に対しては悲しみしかありません。戦争から学ぶことは命の尊さではないのでしょうか。

ネット上には、しばしば過去の戦争を美化し勝ち負けの議論に終始する輩が出てきます。命より国体、この価値観はどうあっても受け入れることはできません。

『平和』という言葉を辞書で引くと、こんなことが書いてあります。
1 戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。「世界の平和をまもる」
2心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「平和なくらし」

平和という言葉を、1だけの意味に狭く考えてはいけないと思うのです。2こそ大事ではないですか。おだやかな暮らしのために戦争なんて論外。では、戦争状態でなければ平和でしょうか。
残念ながらこの国は、「おにぎりが食べたかった」と書き残して餓死する人がいる国です。介護中の親御さんを殺し自分も死ぬことを選んでしまう人がいる国です。生保を受けられずまともな医療も受けられないまま孤独死する人がいる国です。年間の自殺者が3万人もいるんです。これは平和でしょうか。心配やもめごとがない穏やかな生活には程遠い現実があります。

8月は特別な月です。でも8月だけで済ませる訳にはいかないと思うのです。日々の暮らしの中から、戦争や平和について考える「習慣」が必要だと思うのです。平和を求めるということはご大層な大義名分ではありません。当たり前の生活を求めることだと思うのです。私たちにも、どこの国の「私たち」にも、それを求める権利があるはずです。